2009年3月27日金曜日

米欧回覧実記

久米邦武の「米欧回覧実記」では, 日付が2つ書いてあるのに気づく. 例えば最初に「明治4年11月10日 冬至 西暦1871年12月12日」とある. 日本で太陽暦にしたのは, 明治5年12月だから, この時はまだ太陽太陰暦で, 明治4年はその日付. 西暦は太陽暦である. 我々が, 今日は旧暦の正月だと, 旧暦を意識するように, 昔の人は, 新暦では何日と知っていたのであろうか.

「11月21日ハ西洋暦ニテ1872年1月1日デアル.」 という記述もある.

青木信仰「時と暦」で, 「ケプラーのような人の手紙では, Leipzig. 11./21.Okt. 1630というようになっており」を読んだ時には, 天文学者ならそうかと思った程度であったが, 明治はじめの日本でもこうであったかと認識した. もっとも「米欧回覧実記」は帰国して書いたから, 出発の時は, 知らなかったかもしれない.

そもそも序文に「明治4年11月10日ニ起リ, 6年9月13日ニ止ル(即西暦1871年12月12日ヨリ同73年9月13日マデ)スヘテ全1年9ヶ月21ヶ日ノ星霜ニテ」と書く. 旅の終りの日が合っているのは, その間に改暦したからだ.

Keplerの記述でなるほどと思うのは, カトリックの国では, すでに1582年に改暦し, 10日飛ばしたので, Keplerの日付の差もちょうど10日なことだ.

それに対して, 米欧回覧実記の日付は, 多少怪しい. そもそも新暦で, 12月12日が冬至だろうか. そしてその10日後が新年であろうか. どうも11月10日が12月12日というのがおかしい.

インターネットで調べると, 驚いたことに新暦から旧暦を教えてくれるページがあった.
http://koyomi.vis.ne.jp/i/9rekical.php
ここで1871年12月を見ると, 新暦12月21日が旧暦11月10日になり, 新暦12月31日が旧暦11月20日になる. だから新年の記述は正しかった. ついでに1872年12月を見ると, 新暦の12月31日は旧暦12月2日であり, 12月2日の翌日を明治6年1月1日にしたのであった.

米欧回覧実記に「西洋ニテハ国都ニハ必ス司天台アリテ経度ハ是ヨリ数ヘ起ス」とあるのも気になる. 確かに伊能図の経度の中心は京都の三条大橋あたりにあったと思う. 前掲「時と暦」によると, 国際子午線会議があったのは, 1880年だから, 米欧回覧実記の頃は, まだバラバラだったわけだ.

ところで, 緯度経度はいつ頃から使われていたのだろうか. 米欧回覧実記でも, 例えば「波士敦(ボストン)府ハ「マッサッセッチュ」州の首府ニテ, 北緯42度20分, 西経71度54分に位シ」のような記述が多い.

曲亭馬琴の「椿説弓張月」には, 琉球の説明に, 「抑彼國は, 北極地を出ること26度2分3厘」とあるから, 1805年頃の馬琴にはそういう知識があった.

「時と暦」には「プトレマイオスの時代でも, 1度よりよい精度はあった」とあるから, 地球が丸いと分かった頃から, 天文学者などには, 緯度経度は認識されていたであろう. 興味があるのは一般人はいつ頃知ったかである.

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